子どものメンタルヘルス教育にアスリートの経験を活用 「よわいはつよいプロジェクト」の挑戦
メンタルヘルスの課題に直面した際に、助けを求めたり、自分の心の様子を人に伝える“強さ”を育む教育に、アスリートの経験が役立つ可能性を示唆する研究結果が報告された。小学校の授業で、5年生の生徒とラグビー選手がアート作品を共同制作することで、子どもたちに前向きな変化が見られたという。これは、日本ラグビーフットボール選手会と研究者による「よわいはつよいプロジェクト」の一環として実施された研究であり、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所の小塩靖崇氏らによる論文が「Discover Mental Health」に掲載された。
学習指導要領の改訂に伴う子どもたちのメンタルヘルスリテラシー教育の課題
思春期のメンタルヘルス
思春期のメンタルヘルスは世界的に公衆衛生上の懸念とされている。国内では自殺者数は近年減少傾向にあるものの、10代の若者の自殺者数は大きな変化が見られず、むしろ微増しており、依然としてこの世代の死因のトップを占めている。メンタルヘルスの問題に直面したとき、多くの人が他者に相談したり助けを求めたりすることをためらう傾向があるが、特に若年層は、自力で問題を解決しようとする傾向が強いことが報告されている。
こうした現状を受け、世界各国で学校カリキュラムにストレス対処法や助けを求める重要性など、メンタルヘルスリテラシー教育を取り入れる動きが進んでいる。日本でも2020~22年に学習指導要領が改訂され、体育(保健領域)や保健体育の授業でメンタルヘルス教育が導入された。この教育では、知識の伝達だけでなく、体験的・実践的なアプローチが効果的とされ、音楽、ダンス、演劇、アートなどの創造的な活動が、スティグマ(社会的烙印)の軽減に寄与することが報告されている。
アスリートのメンタルヘルス
一般的にアスリートは、強靭な肉体と精神力を兼ね備えた規範的存在と見なされがちである。しかし実際には、エリートアスリートも一般の人々と同様に、あるいはそれ以上にメンタルヘルスの問題に直面することが報告されている。とくにアスリートの場合、メンタルヘルスの上の課題を抱えていることが「弱さ」と見なされ、キャリアに影響を及ぼすことを懸念し、問題を隠そうとする傾向が強い。
このような課題を解決するために、著者らの研究グループと日本ラグビーフットボール選手会は、2019年に「よわいはつよいプロジェクト」を立ち上げ、アスリートやサポートスタッフに向けたメンタルヘルス啓発活動を展開してきている。
「よわいはつよいプロジェクト」とは
「よわいはつよいプロジェクト」Webサイト小学校の授業でのワークショップ開催
この背景を踏まえ、「よわいはつよいプロジェクト」が小学校の体育(保健領域)におけるメンタルヘルス教育に参加する試みが企画された。企画会議では、小学校の図画工作の授業を担当し、画家でもある教師が「絵を描くことで生徒が自身の心の状態を表現できる」というアイデアを提案。この手法は複数の研究で有用性が示されており、アートを活用したメンタルヘルス教育ワークショップが開催されることとなった。対象は小学校5年生である。
事前の準備
ワークショップに向けて、ラグビー選手にはメンタルヘルスの専門家によるトレーニングセッションが実施された。アスリートが個人的な経験を構造的に表現できるよう支援した。
このワークショップでは、「子どもたちの非言語表現の促進」、「アスリートとの社会的接触の促進」、「協力的な学習環境の醸成」という変化が期待された。
ワークショップの内容
ワークショップは通常の授業時間4時限内で実施された。主な内容は、以下の通りであった。
- 1) アイスブレーカー(15分):ラグビーパスとタックルの実演と体験
- 2) エリートアスリートによる講演(15分):「よわいはつよいプロジェクト」の理念、メンタルヘルス経験の共有、助けを求めることの重要性
- 3) ストレスとパフォーマンスの関係を学ぶ体験活動(15分):ストレスを可視化し、負荷の影響を理解する
- 4) アートを用いた活動(75分):メンタルヘルスの状態を色と形で表現し、仲間と共有
ワークショップ後のフィードバック
ワークショップの主な成果は以下の3点にまとめられる。
- 1) アスリートからメンタルヘルスについて学ぶ
- 2) 芸術的表現を通じてメンタルヘルスの状態や感情を明確に表現する
- 3) 他者のメンタルヘルスに関心を持ち、サポートする意識を育む
実際に参加した生徒の多くは肯定的な感想を述べ、否定的な反応はみられなかった。とくに、「アスリートからメンタルヘルスについて学ぶ」という点に関しては、多くの生徒がアスリートの個人的な経験談に興味を示した。「堂々とした逞しいアスリートと対話し、実際に彼らの存在に触れることで、不安や心配といった心の状態を否定せずに受け入れられるようになった」、「不安や悩みを他者と共有することは恥ずかしいことではないと感じた」といった意見が寄せられた。また、複数の生徒が「絵を描くことで徐々に心が落ち着き、他者に感情を表現する力や、仲間の感情を理解する力が向上した」と報告をした。さらに、助けを求めることと、他者を助けることの両方が大切だとの気づいた」といったコメントも多くみられた。
加えて「ラグビー選手がとても背が高くて大きいことに驚いた」「ラグビーをやってみたい」といった感想もあった。これらはワークショップの直接的な目的とは異なるものの、生徒たちが積極的に関与し、アスリートとの信頼関係を築いたことを示していると考えられる。
最もアプローチが難しい世代へのメンタルヘルス教育におけるアスリートの役割
著者らは、本研究が単一の小学校のみで実施され、ワークショップ前後の生徒の知識や態度の変化を定量的に評価していないといった限界点があることを認めたうえで、次のように結論を述べている。
「アスリートによるアートを活用したワークショップは、子どもたちのメンタルヘルスを促進する有意義で革新的なアプローチとなる可能性がある。アスリートがアートを用いることで、参加者は感情を表現しやすくなり、助けを求めたり、他者を支えたりすることへの心理的なハードルを下げることができる。」
また、「アスリートとメンタルヘルスの専門家が協力することで、若年世代にも根強く残るスティグマを軽減することが可能となる。とくに、このアプローチが難しい世代向けたメンタルヘルス教育では、新たな指導方法の模索が重要である」と付言している。
文献情報
原題のタイトルは、「Elite athlete initiatives in school mental health: crafting an art-based educational methodology for promoting mental health help-seeking」。〔Discov Ment Health. 2025 Mar 9;5(1):30〕
原文はこちら(Springer Nature)